赤人社

 

「湊社の次には赤人社を詣でるが、この祭神も別火氏の祖である。」(千家 尊統著 『出雲大社』 学生社発行)とあった。

 

赤人社の祭神は、万葉歌人 山部赤人である。(→ ウィキペディア 山部 赤人 )

 

別火氏の先祖がなぜ山部赤人なのか、さっぱりわからない。

 

『雲陽誌』(1717年)にも、大社町「赤塚」の地名起源として、山部赤人の塚のことと、書かれている。

 

〝赤 塚

 

古老傳に曰和歌の仙山邊赤人の塚あり、故に赤塚といふしるしの松もありしか、往昔大風吹倒侍、赤人の傳詳ならす、聖武天皇の時の人ともいふ、

 

人丸同時ともいへり、【古今】の序に赤人は人丸の下にたたむことかたくなん、山邊神社【風土記】に載る山邊社なり、赤人の靈をまつる、祭日十月中の亥の日、〟(『雲陽誌』)

 

山辺神社 拝殿  - 島根県出雲市大社町杵築西

 

 

 

「山部赤人」の名を聞いて、「なんだ、神代の祭神ではなく、新しい神社か。」と思ってしまいがちであるが、『出雲国風土記』(733年)の時代には、山辺社3社が、すでに出雲郡に存在している。

 

もともと、山部赤人が祭神ではなかった可能性もあるかもしれないが、山辺氏(山部氏、山邊氏とも書く。)の氏神を祀った神社であったのは間違いないと思われる。

 

天平11年(739年)の『出雲国大税賑給歴名帳』(『正倉院文書』に所収)にも、漆沼郷に「山部直 一戸」とあり、山辺氏の存在がわかる。

 

(たった1戸と思われるかもしれないが、『出雲国大税賑給歴名帳』には、扶養を要する高年の者や年少者の属する戸主の姓氏を列記したものであり、住んでいる氏族がすべて書かれているわけではない。)

 

例えば、おとなりの石見国にも、式内社「山辺神社」(島根県江津市江津町112)が存在する。そこの社記によると、白雉三年(652年)に大和国山辺郡石上の石上神宮より勧請したものであるとのこと。( ウィキペディア 山辺神宮 )

 

石見国の山辺神社については、物部氏との関連ということになる。別火氏の先祖ということなら、物部十千根の石上神宝管理の話が思い起こされる。(『日本書紀』垂仁天皇記)

 

しかし、石上神宮を勧請するのなら、一般的には、石上社であると思う。

 

ただ山部が、職業部であり、いわゆる氏族としての山辺氏ではなく、神門臣系あるいは物部系としての山部があったかも?と考えることもできる。

 

 

山部赤人の系譜

 

山部の姓氏起源は、ウィキペディア 伊予来目部小楯 によると、伊予来目部小楯 が播磨国の志自牟で(『古事記』表記)〝億計(おけ)王(後の仁賢天皇)・弘計(をけ)王(後の顕宗天皇)を発見し、民衆を動員して仮宮を建てさせた上で、朝廷に報告した。

 

清寧天皇は驚き、さらに非常に喜んだという小楯はその功で山官(やまのつかさ)に任じられ、山部氏と連の姓を与えられた。そして「吉備臣」を副(そいつかい)として「山守辺」(やまもりべ)を部民とした〟と、ある。

 

鈴木真人『諸系譜』第二冊 山宿禰の系図(⇒ 国立国会図書館デジタルコレクション『諸系譜』第二冊54頁 )によれば、山部赤人は、久米一族である伊予来目部小楯 (→ ウィキペディア 伊予来目部小楯 )を始祖とする山部氏の六代目である。

 

伊予来目部小楯 ー 歌子 ー 伊加利子 ー 比治 ー 足島大山上 ー 赤人上総少目外従六位下 ー 磐麻呂  

 

ウィキペディア 山部(品部) によると、山部氏は播磨国に広く分布し、法隆寺や上宮王家(いわゆる聖徳太子)と密接な関係があったのではないかと言われている。(岸俊男 説)

 

播磨国の山部であるが、『播磨国風土記』賀古郡条には、関東の出雲国造系の系譜にある息長命(又の名、大中伊志治命)が、賀毛郡の山直の祖として登場してくる。

 

名前からして、息長家と思えるが、出雲臣比須良比売(いづものおみひすらひめ)を娶るとあり、母系で出雲族でつながっているものと思われる。

 

久米族の前段に出雲族が山部として、分布していたのかもしれない。

 

上宮太子の系譜をさらに調べてみた。夫人に膳氏出身の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)、弟に来目皇子(久米王)、来目皇子の夫人に膳比里古郎女(ひろこのいらつめ)(菩岐岐美郎女の妹)とあり、上宮王家自体が久米氏や膳氏との関係が強かったと思われる。

 

上宮王家との関連が強いということから、上宮太子の御子(日置王・財王)とも関係が強いということから、山部氏が出雲国に随伴したのでないかなどと妄想が浮かんだ。

 

 

富家伝承

 

『古事記の編集室』(斎木雲州著 大元出版)によれば、『日本書紀』は太安万侶が書いたものとのことだ。

 

〝日本書紀の注釈書に「弘仁私記」がある。その「序」に、日本書紀は舎人親王と太安万侶らが詔勅を受けて、編集した書物だ、と書かれている。〟

 

『古事記』の序文には、稗田阿礼が語った歴史を太安万侶が編集したものだと書かれているが、『古事記の編集室』には、実際は、柿本人麿が書いたという話が載っている。

 

ちなみに兵庫県揖保郡太子町の「稗田神社」には、現在稗田阿礼が祀られているが、上宮太子妃である膳部菩岐々美郎女が元々の祭神であるという説もある。

 

話は戻るが、太安万侶とどう関係してくるかだが、『古事記の編集室』(斎木雲州著 大元出版)の抜粋である。

 

〝それ以前に出雲国司・忌部子人の指図により、国庁の近く(松江市竹矢町)に、太家屋敷と呼ばれる建物ができた。回りは生け垣で囲まれていた、という。

 

そこに、太安万侶が監禁されていた。717年頃に、秘密の使いが大社町の向家を訪れ、こっそり会いたい旨を伝えた。使いと一緒に太屋敷の近くに行き話を聞いた、と向家では伝承されている。そのとき不思議にも、安万侶は山辺赤人と名乗った。〟

 

〝かれは自分と柿本人麿が、古事記と日本書紀を書いた、と話した。出雲の歴史は書かない予定だったが、自分が書くことを主張して、書くことになった、と話した。

 

つまり、出雲王国を出雲神話に変えて、出雲国造は隠したが、古事記に17代にわたる出雲王名が書かれたことを、話した。

 

向家の当主は、出雲人を代表して、お礼の言葉を述べた。また赤人はそのうちに、カズサの国に行く予定だ、とも言った。〟

 

元々の富家伝承では、太安万侶と山辺赤人の伝承は別々であったとのことである。しかし、仮説として、太安万侶が、山辺家に養子となって、解放され、上総の国で一生を終えたことが書かれていた。

 

〝安万侶は以前から、山辺家の養子になることが決まっていたらしい。日本書紀の天武紀元年6月に「山辺君安麻侶」の名が書かれている。山辺家の家系図によると、赤人はこの人の養子になっている。〟(『古事記の編集室』斎木雲州著 大元出版 )

 

前掲の『諸系譜』とは別の系図であるようで、

 

〝その近くに、赤人の親族の家が現在も存在する。そこには家系図があり、播磨国司だった山部連小盾を含む系図を知ることができる。小盾の息子が羽咋で、その子が山辺郡司の安麻呂となっている。〟(『万葉歌の天才―人麿の恋』斎木雲州著 大元出版 )

 

〝赤人の子が安万呂で、赤人の孫が針間(播磨)万侶と花万侶と吾方(県)万侶となっている。〟(『万葉歌の天才―人麿の恋』斎木雲州著 大元出版 )

 

〝その後、かれはカズサへ行き、山辺家の養子になり、山辺兼輔を名乗り、真行寺を建てた。そちらにも、かれの子孫が実在する。〟(『古事記の編集室』斎木雲州著 大元出版より)

 

〝かれの墓は千葉県東金市田中、雄蛇ヶ池の南に立っている。〟(『古事記の編集室』斎木雲州著 大元出版より)

 

山辺神社 本殿  - 島根県出雲市大社町杵築西

 

 

 

さて、テーマの赤人社であるが、

 

〝それで山辺赤人が出雲の恩人だと考えて、向家は山辺赤人の供養塔を建てた。それを地域の人は赤人塚と呼んだ。〟(『万葉歌の天才―人麿の恋』斎木雲州著 大元出版 )

 

結局、別火氏との山部赤人との直接的な血縁関係は無いように思えるが、記紀に大国主命に連なる出雲国王の系譜を書いてくれた太安万侶(山辺赤人)の感謝のために、赤人社を詣でるのかもしれない。

 

◆ 参考文献 ◆

 

斎木雲州著 『古事記の編集室』 大元出版

 

斎木雲州著 『万葉歌の天才―人麿の恋』 大元出版

 

※アマゾンで注文するとなぜだか値段がつりあがっているものがありますが、本屋さんで取り寄せすると定価で購入できます。本屋さんによっては、取り寄せできぬ場合があるらしいですが、出版社に直接注文できるようです。

 

< 戻る          次へ >

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加

Copyright © 2024 古代出雲への道All Rights Reserved.